三菱自はモノづくりは残さないと感じている

三菱自動車の下請け企業が集積する岡山県総社市。自動車部品工業団地「ウイングバレイ」で理事長を務める晝田(ひるた)眞三氏は4月18日、三菱自の担当者から突然電話を受けた。数日後に控えた同工業団地の50周年式典に相川哲郎社長が出席できなくなったという連絡だった。「何かあったのではないか」と晝田氏は直感した。電話があった2日後の4月20日、三菱自は同県倉敷市の水島製作所で生産する軽自動車4車種で燃費データに不正操作があったと発表した。生産停止に追い込まれ、膨大な補償金への対応が危ぶまれたが、3週間後には急転直下で日産自動車との資本業務提携を発表。約2カ月半ぶりに7月4日から水島での生産を再開した。

晝田理事長は、日産自傘下の再出発に「本当に再開できるのかとの疑心暗鬼から道筋がついたという意味では一歩前進」と言うものの、「これからが正念場なんだという気持ち。一番の不安は日産自と提携したことがどう出るか」と懸念を隠しきれない。

日産自は1999年に発表した再建3カ年計画で、主力拠点の村山工場(東京都東村山市)など5工場の閉鎖と、グループ全体の14%に当たる2万1000人削減を発表。部品取引先は半減し、系列取引を抜本的に見直すことで黒字化を目指した経緯がある。グローバル展開の中で合理化を進めるゴーン流の日産自が、何世代も三菱自の取引を優先してきた中小部品メーカーをどう扱うのか、地元では不安が広がっている。

 水島製作所の地元は、三菱自の栄枯盛衰を映し出している。近くの商店街は、仕事帰りに仲間と杯を交わす工場労働者でにぎわっていた80年代の面影はなく、営業している店を見つけるのが難しいほどのシャッター通りとなった。3代続く和菓子店、清正堂の従業員は、人通りがなく気軽に立ち寄ってもらうことが難しくなったと語った。向かいの洋品店は三菱関連企業の作業着を受注していたが、今年閉店した。

同製作所は43年に航空機の生産拠点として開設され、47年に当時の三菱重工業が初の自動車となる三輪トラックを生産。三菱ブランド車の競争力強化を目指して部品会社が集積したウイングバレイが誕生したころには、人気車種コルトやミニカの生産が始まり、最盛期の93年には約73万台を生産していた。

 ギャランなど三菱車に憧れて部品メーカーに入社したという人も多く、内装部品生産ラインで働く男性(42)は、三菱車はエンジンの音を聞いただけで分かる、と言うほど愛着が深い。

しかし、リコール(回収・無償修理)隠しなど相次ぐ不祥事とともに生産は下降線をたどり、2015年度は今回不正の対象となった軽4車種と電気自動車(EV)アイミーブなど約31万台にとどまった。ある部品メーカーの経営者は、リコール隠しの時は資本提携した独ダイムラーが地元調達を減らし、11年までの円高では半年間車両を作らない時もあったと話す。それでも創業時から三菱自に使ってもらっている恩義を感じ、先代も苦しい時は利益を度外視してでも部品を納入してきたと言う。

工場の稼働率が下がる中、13年、日産自と合弁会社を設立することで水島での軽自動車生産が決定。部品メーカーの経営者は従業員と万歳三唱して、首の皮一枚でつながったと喜んだのもつかの間、3年後の今年、その軽自動車が不正により生産停止に追い込まれ、水島製作所の4割に当たる1300人が自宅待機となった。次は日産自傘下に入り、再建を目指す。  三菱自の子会社工場で働く男性の妻は、工場が再開した後も職を失うかもしれないと考えている。夫は5月初旬から自宅待機を命じられ、4歳の娘と家族3人で過ごしている。三菱自が日産自から経営の効率化を求められたら、おそらく子会社の自分たちは真っ先に解雇されると覚悟しているという。  ウイングバレイの晝田理事長は、ダイムラーが部品調達を指揮した当時は「小さな部品会社には統合を勧めるなど気を使っていた」と話し、「日産自が同様の丁寧な対応をしてくれるかは不透明」と不安を漏らす。日産自が「グローバルの視点」で地元メーカーを見たとき、直接取引が継続できない会社もあるだろうと述べた。  日産自は、1999年に仏ルノーと提携し経営再建を目指す中で、事業を徹底的に見直し、利益向上を追求してきた。部品の分野では海外拠点や取引先も含めたグローバル共通システムを採用するなど調達体制の強化を図っている。

総社市に本社を置くある部品会社の社長は、三菱自の不正を機に自動車メーカーに直接部品を納入する1次サプライヤーから、大手部品メーカーの下請けとなる2次としての道を模索する決断をした。収益力や力関係が一段と弱まるのは覚悟の上だ。  不正発覚前に日産自へ部品納入を打診したことがあるが、三菱自では現物試作を納入して性能確認を依頼するのに対し、日産自では独自のCAD(コンピューター利用設計システム)で蓄積したデータが必要と言われた。「設備がない」と伝えると、日産自の部品メーカーの下請けになってはどうかと勧められたという。  設備や装置を買うだけなら銀行から融資を受ければいいが、それを使える人材を育て、十分なデータを蓄積するには3年はかかる。この社長は、日産自傘下に入ると、いずれ今のままでやっていけない時が来ると痛感。悩んだ末、生き残るには当面は孫請けとして将来に備える決意を固めたと言う。

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生産再開を素直に喜べないもう一つの理由は、モノづくりが変わってしまうとの懸念だ。三菱自は、開発担当だった相川社長らが責任を取って退任し、日産自の技術担当役員が開発部門トップとなった。地域にも足を運び技術について意見を交わした相川氏の退任に対し、総社市の別の部品会社社長は釈然としない思いを抱く。三菱自は経営だけは温存したが、モノづくりは残さないと感じているという。

信用を失った三菱車の販売は前途多難であり、当面は生産の急回復は見込みにくい。6月21日には、三菱自のサプライヤーである安藤工業所が2700万円の負債を抱えて倒産した。岡山県庁の横田有次産業戦略監は「今は多くの部品メーカーが資金繰りをつけながら何とかつなげようとしているのが現状だ」と述べた。  4月に突然停止した水島製作所の生産ライン上には、生産途中の車両600台が載ったままだ。担当者が調べたところ、部品の一部はバッテリー放電やゴムの劣化などで既に使えなくなっていたという。
sankeibiz.jp

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by ganbaremmc | 2016-07-11 06:50 | 三菱自動車 | Comments(0)