マツダ フォードとの決別もいとわず。エンジン一点突破のすごみ

日本の自動車産業の中で長らく「お荷物」的な立場だった中堅メーカーの明暗が分かれている。三菱自動車が相次ぐ不正隠しが原因で日産自動車の傘下に入った一方、マツダと「スバル」車を展開する富士重工業の好調ぶりが際立つ。2000年前後にそろって経営危機に陥った3社。何が明暗を分けたのか。マツダ復活の舞台裏を探ると、得意分野で自分たちができることを貫いた一点突破の凄み(すごみ)が浮き彫りになる。

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「男の子は泣くもんじゃないと言われて育ったが、男だって泣いていい日がある。閉鎖の時は泣いて再開を誓ったが、今日はうれし涙で迎えたい」 2004年5月26日、当時マツダ社長だった井巻久一(74)は宇品第2工場(広島市)で社員にこう語りかけた。生産畑出身の井巻の脳裏には、手塩にかけて育てた工場を閉鎖した01年9月の「断腸の思い」がよみがえっていたという。

バブル崩壊からの失われた10年はマツダの屋台骨を揺さぶった。5チャネルにまで肥大化させた国内販売網が崩壊。泥沼の安売り競争を仕掛けざるを得ず、顧客からは車を下取りに出すと再びマツダ車しか買えないくらい価値が下がる事態に「マツダ地獄」との悲鳴すら漏れた。1996年に米フォード・モーター傘下に入り、2001年には早期退職への応募がわずか1分で打ち切りとなる珍事が話題になる始末だった。 フォード傘下でかろうじて再建を進めたマツダ。宇品再開は反撃の合図だった。デザインを一新した新車が飛ぶように売れ始め、06年に入ると極秘裏にこんな計画が持ち上がった。 「10年後のマツダ車の形を作ろう」 ありがちな長期経営ビジョンの類いではない。10年後までの商品ロードマップをきっちりと決める。それも世の中にないものを作る。目指したのは「世界最高のエンジン」だった。燃費性能を最大2割高めてとことん「走り」を追求するスカイアクティブだ。十数年ぶりの明るい話題に開発陣の士気は上がった。

だが、ここから苦難の物語が待ち受けていた。 
「世界中のメーカーができないものをマツダにできるわけがないだろ」。翌07年、当時のフォードの開発トップは居並ぶマツダ経営陣を前に言い放った。実質的な親会社からの門前払い。「せめて次のステップまで進めさせてください」。井巻はなんとかスカイ計画の命脈をつないだ。 ここまでのマツダ反攻を支えたのは1999年に決めたフォードとのエンジン共通化だった。救ってくれた相手に逆らってまで独自計画を進めるのか。井巻と技術トップの金井誠太(現会長、66)が出した答えは「それでもやる」だった。このとき、エンジンでたもとを分けたことが後の提携解消の引き金となる。 そして剣が峰が2008年9月のリーマン・ショック。「実は当初はむしろ追い風かと思った」。当時、最高財務責任者(CFO)だった尾崎清(68)はこう振り返る。価格の安さと燃費を求めて小型車にニーズが集まるとみたからだ。だが尾崎はすぐに事態の深刻さに気づく。世界の自動車需要の3割が消し飛び、マツダもわずか3カ月で1700億円の現金を失った。 年が明けて09年にはトヨタ自動車のハイブリッド車(HV)「プリウス」のヒットでエコカーブームに火が付く。「うちはエンジンばかりやっていて大丈夫なのか」。社内からも不安の声が上がったが、技術陣を率いる金井は幹部会議でこう言い切った。 「今までやってきたことを信用してください。まあ、今に見ときんさい」 金井には秘策があった。部下でエンジンのスペシャリストとして知られる人見光夫(62)は改良点を7つに絞り込むと提言していた。フォードなどと比べ限られた人員で世界一を目指すため、取り組むべき課題をあえて限定した。特にこだわったのがエンジンの燃焼効率に直結する圧縮比。人見は既存技術を活用して世界一を実現できるという。金井は「最後はあいつの目を見て考えた。賭けてみようと」と振り返る。 後にHV並みの燃費を達成した実力を認めたのがトヨタ自動車だ。マツダに車両供給を打診し、15年の包括提携につながった。 翌10年には中国政府から「マツダ切り」の要請を受けたフォードがあっさり保有株を売却し、実質的に提携を解消した。後ろ盾を失ったマツダ。尾崎はこの後、金策に駆け回った。

「何とか3年連続の最終赤字は回避できそうです」。
井巻から社長を引き継いだ山内孝(71)に尾崎が報告した日の午後、大震災が東日本を襲った。広島が本拠の同社に直接の被害はなかったが11年3月の震災で部品供給が停止。起死回生に向けいよいよ開発陣へのプレッシャーは高まった。 結局、12年3月期まで4年連続の赤字になった。増資を繰り返したためマツダの発行済み株式数は2倍にまで膨らんだ。それでもぶれなかった。山内は何度も繰り返した。「(世界の)3%のお客様に支持してもらえる車づくりに徹する」 「もうこれ以上の赤字は許されませんよ」。主力取引銀行から最後通告とも取れる連絡が入った前後の12年2月、スカイアクティブ技術をフル搭載した小型SUV(多目的スポーツ車)「CX―5」を発売するとヒットを連発して赤字を帳消しにしていった。 フォードという「大樹の陰」を捨ててまで独自路線を貫いたマツダ。

対照的なのは巨大メーカーのトヨタの傘下に入ることで復活した富士重だ。
08年に16.5%の出資を受け入れた。 同社もここから選択と集中で復活を果たす。だが大樹の陰に入るリスクが見え隠れする出来事もあった。 「もし御社がトヨタと同じ領域に入ってきたら、即座にたたきつぶします」。トヨタとの提携交渉の初回会合。経営企画部長として出席した富士重社長の吉永泰之(62)は、トヨタ幹部の言葉に息をのんだ。立ち位置を間違えれば富士重の将来はない。その制約は恐らく、今後も続く。 いまだ規模がモノをいう自動車産業。技術力を磨き、独自路線で「勝ち組」となったマツダも前途が安泰なわけではない。復活劇を演出した金井もこう話す。「やはり独り立ちだけでは心もとないのは確かだ」。中堅の星・マツダの悩みは尽きない。

我々は運が良かった。車づくりを一変させる「スカイアクティブ計画」は2006年に始めたが、もしリーマン・ショックが2年早く来ていたら今はなかっただろう。当時は2000年前後のどん底から立ち直ったばかり。それまで足元ばかりを見ていた少年が大人を目指した。 世界最高のエンジンを作る目標。自信はなかったがやるべきだと思った。むしろ手堅い選択だ。当時から電気自動車(EV)のシェアは10年後でも良くて10%。そこに社運を賭けるべきか。目指すべきは世界に冠たるエンジンじゃないのかと。そこで並みのものしかできないなら、どのみち我が社に明るい未来はないと腹をくくった。 リーマン・ショックが来たときは議論し直したが、これに代わる案はないと結論づけた。直後にエコカーブームが来たが、メディアや政治家、役人は「あしたにもEVの時代が来る」というような感じ。皆さん、勉強不足だなと思いましたね。 不安はあった。12年にスカイ技術をすべて搭載したCX―5を発売した。「この車が売れないはずがない」と思う一方で「もし当たらなかったらウチはダメになる」と不安だった。 当社は市場のど真ん中には球を投げないと決めた。他社も投げるから。車づくりを「インコース高めに外せ」と言っている。大切なのは外す方向を統一すること。それがブランドに直結する。アウトコース低めでもいいけどインコースのほうが攻めてる感じがして良いでしょ。

国内外の自動車産業を分析してきたが、マツダの復活は本質的に正しいことを徹底した結果だ。世界最高のエンジンや「乗って楽しい」など、車ならまずは追求すべきことを愚直にやりきった。その意味でマツダに一番近いのは独BMWだ。両社とも一本の軸に集中して成功している。 内燃機関の追求というテーマはど真ん中の選択肢だが、むしろすごいのはそれ以外をやらないと選択して貫いた点だろう。エコカーもブームに乗らない根拠を持っていた。 マツダには、かつて国内販売5チャネル計画が破綻してブランドがぼろぼろになった経験がある。今のブランド戦略には同じ失敗を二度とやってはいけないという教訓が生きている。 テーマを絞り込んだ点ではスバルを展開する富士重工業も同じ。スバルは米国の消費者の声を拾うマーケティング先行型。マツダは今後、自己満足に陥るリスクもあり、スバルに学ぶ部分も多いと思う。同じ中堅でも三菱自動車には「三菱といえばこういう車」というのがない。明暗を分けた理由だ。ホンダも選択と集中ができておらず、ひとつずつの車にリソースが足りない状態のようだ。 新興勢力の台頭も無視できない。昔は完成車メーカーがすべてを決めたが今はデジタル化で1次サプライヤーが強い。米テスラ・モーターズが独メルセデス・ベンツのシステムを活用しているように車づくりの前提が変わりつつあるといえる。
日本経済新聞


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by ganbaremmc | 2016-12-31 19:11 | マツダ | Comments(1)

Commented by 名無し at 2017-01-01 17:22 x
マツダは金の無い時も、怠けず開発を続けて来たのが今の結果に結びついているのだろうね。

以前、仕事でGMのエンジニアと仕事する機会がありましたが、当時は倒産直前だったので相当苦しそうでしたね。
それでもGMは開発に一定の金はつぎ込んでていた。
チャプター11後の回復振りは凄いものがある。

逆にフォードは中国人の爆買いのごとく、世界中の自動車ブランドを買い漁った。
その後、倒産こそ免れたが先行投資を怠っていた為、いまだに回復は鈍い。

マツダはいいタイミングでフォードと関係を切ったと思います。